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秀太郎歌舞伎話@ 〜 中座の思い出 先日中座が爆発炎上するというとてもショックなニュースがありましたので、今日は中座のお話を少しいたしましょう。 中座は僕にとってはホームグランド。まあ、家といってもいいくらいのところでした。ですから、これが大きく印象に残っているということはなくて。皆さんも「自分の家での思い出は?」といわれると困ってしまうでしょう?もちろん小っちゃな思い出はたくさんあります。例えば、舞台裏を駆け歩いて前歯をおってしまったりといったような・・・。ずっと子供のころから暮らしていたようなところなんですよ。 お芝居のことでいいますと、寿海おじさま(三世市川寿海丈)が盛綱(近江源氏先陣館・盛綱陣屋)をなさったときに小四郎をさせていただいた際、子役として大変評判がよくて「うまいうまい」と褒められましてね。ついついいい気になっておりましたところ、千穐楽にパッと舞台にでたら真っ白になってセリフがわからなくなり、舞台でウロウロとパニックになってしまったことをよく覚えております。それから、新潮座とかいう劇団の公演では、きの字屋のおじさま(十四世守田勘弥丈)がなさった「新門辰五郎」(真山青果作)というお芝居に子役でださせていただいた際に初めて一人部屋を楽屋でもらいまして、そのとき千日前の歌舞伎座と掛け持ちしていたこともあって随分と緊張してお芝居をさせていただいたことなども小さいころの思い出ですね。 また、仁左衛門一座の芝居興行がいくつかございました中で、例えば「双蝶々曲輪日記」など、いくつかの芝居が観ていてとても面白くて、なんといいましょうか、お芝居の面白さが培われたというか、お芝居の魅力に見入られたというか・・・。役者として育った場所というところでもあります。東京の歌舞伎座にでるよりもずっとそこで過ごす時間が多いわけですから、とにかく「家(うち)!」という気持ちが強いところなんですね。 自分の仕事でいえば、やはり「中之芝居」。これは、自分の歴史の中でもとても大きなものです。中座でやることがやはり意味があったと思います。小さい頃から父(十三世片岡仁左衛門丈)にも「中座はどこの劇場よりも一流だ」といわれていましたし、その「格」というのは古くなっても失われていなかったと思います。「中之芝居」は中座で上演された最後の歌舞伎となりましたし、もともとは「中座」という名称ではなくて「中之芝居」といわれていたわけですから、そこで3年にわたって中之芝居として関西で関西歌舞伎を興行できたのはとても自分にとっても大きな出来事でした。ありがたかったし、やってよかったです。 僕はよく「上方歌舞伎」や「関西歌舞伎」ということで引き合いに出されることが多いですが、僕自身はあまりそれを強く言いたくはないんです。だって、もともと歌舞伎は上方で生まれたものでしょう。もともとはそうなんですがいつの間にかセリフも何もかもが江戸風になってしまって、上方というのが特殊なやり方のように捉えられてしまっている。とくに義太夫狂言などは本来の調子と変わってしまっていましたから、僕はただ普通の歌舞伎がしたかったんですよ。そして江戸歌舞伎と同じように本来の歌舞伎もちゃんと残していきたかったんです。もちろん歌舞伎には常に新しい試みが必要で、先代の皆様がいろいろと工夫をされてすっきりとした江戸前のものができたりして、それはそれでとてもよいことだと思います。でも、例えば兄(五世片岡我當丈)や弟(十五世片岡仁左衛門丈)、鴈治郎兄さん(三世中村鴈治郎丈)のように、東京にいてもちゃんと上方のことばで語れる人がいますでしょ。小さい頃から関西で育ったからベースがちゃんとあるんですよ。そんなふうなベースをこれから先の時代も残していかなきゃいけないなと思います。だから、僕にとっては中座で関西にいる役者で中之芝居をやることに意味があったんですよ。 実際には中座は取り壊しが進んでいましたけど、やっぱり本当になくなってしまうと家がなくなってしまったような寂しい気持ちもあります。他の劇場にもたくさんの思い出はありますけど、中座は僕にとってはやはり特別でしたね。 (2002年10月) |
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